怒りの俳句

怒りの俳句

怒り

おそらく怒りは、あらゆる感情の中で最も強い感情だ。

喜び、悲しみ、不安などの感情が生み出す興奮はやがて和らぎ、思い出や経験に変わっていくが、怒りは生々しい興奮をいくたびも呼び戻す。
なかなか消えて無くならない。

そんな強い感情をんだ俳句の中には、作者のいきどおりが迫るように伝わってくる傑作も多く、読者に鮮烈な印象を残す。例えば、次の一句。

脱ぎ捨てし外套がいとうの肩なほ怒り
福永耕二

外套とはオーバーコートのことだが、この冬の季語がいている。
怒りが収まらない人物の顔の火照ほてりや、体から衣服を通してれ出て来る熱気、さらには激しくなった息づかいまでリアルにイメージできる。

怒りの感情を詠んだ作品をもう少し拾ってみよう。

怒りを詠んだ俳句

しづかなる男の怒り扇置く
西島麦南

忿いかり頭を離れず秋刀魚さんま焼きけぶらし
三橋鷹女

去るものは去れ手紙もて羽蟻はありつぶす
大野林火

秋冷の書を買ふ怒りしずめんため
山田みづえ

扇風機怒りはおごそかに育ち
櫂未知子

次の句は、「八月九日」という前書きが欠かせない句。

 八月九日
いたむかに憤るかに四方よも
下村ひろし

言うまでもなく八月九日は長崎に原爆が投下された日であるが、この作品には、き上がったばかりのカッカとした感情ではなく、冷静ながら重い悲しみと、冷静ながら重い怒りが表現されている。

次も蝉の句だが、怒りの感情が心の痛みに置き換わる刹那が、映像をスローモーションで映写するような巧みさで表現されている。

子をちしながき一瞬天の蟬
秋元不死男

怒りの客観視

怒りの感情はおそらくずっと消えない。

だが、怒りに導かれるままに行動していると人間関係が破綻はたんし、場合にはよっては罪を犯して社会人として終わってしまうため、人は怒りを心の奥底おうていに封じ込める。

そして、その怒りが顕在けんざい意識まで浮かび上がってこないよう、常に心に重石おもしを載せているが、それでも時折古い怒りは浮かび上がり、暴れ出そうとする。

筆者は、地位や財力を振りかざす相手に屈服させられた時に、特に強い怒りを生み出してしまう性格のようで、そういうときの怒りはいつまでも心の中から出て行かない。何度も何度も復活して暴れ出そうとする。

その暴れん坊を理性によって必死に抑え込むのだが、あまり無理に抑え続けると心因性の腰痛など別の形になって現れ、己を苦しめる。だから最近は怒りを客観視し、脳内で好き勝手に遊ばせるようにしている。

怒りを脳内で自由に遊ばせるが、決して怒りに振り回されることはない。自分の行動を怒りにコントロールはさせない。ただひたすらに怒りを客観視する。

憤怒ふんぬぶり返し柚子ゆず湯の柚子を
凡茶

怒りの客観視が上手に出来るようになり、最近はよみがえる昔の怒りに困らされることが徐々じょじょに減ってきた。

さらに大人になれるのなら、客観視した怒りを俳句のモチーフにし、次のような名句を生み出せるようにまで成長したいものだ。どうせ消えずに居座り続ける怒りならば、それを俳人として飛躍するばねに変えていかなくては。

不図ふとうつす怒りはづかし春の水
東皐

寒気の中怒ればこの鶏に似て
岸田稚魚

おわりに

ここまで当記事をお読みいただき、ありがとうございました。
最後に、拙句せっくをもう一つ紹介し、脱稿といたします。

夏終る畳にカメラ叩きつけ
凡茶

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