山笑ふ(山笑う) 春の季語・地理

山笑ふ

山笑ふ(山笑う)の時季と副題

時季三春(初春・仲春・晩春) 2月・3月・4月
副題笑ふ山(笑う山)

山笑ふ(山笑う)の解説と俳句での活かし方

枯れてひっそりとした冬の山にも、やがて春は訪れる。
木々の芽はふくらみ、草はえ出し、山肌では瑞々みずみずしい命がしかと息づき始める。

そんな春の山を遠くから眺めると、おおらかさ、やわらかさ、そしてつややかさを、かすみとともにまとっている。
冬の、しずまり落ち着いた印象からは一変している。

そんな山の様子を「山笑ふ」と表現する。

鎌倉や昔笑うた山ばかり
吐月

大和路に似る筑紫路ちくしや山笑ふ
野村喜舟

安曇野あずみのの真中に立てば山笑ふ
藤田湘子

山笑ふ村のどこかで子が生れ
尾形不二子

山笑ふリャマとアルパカ競ひ
凡茶
リャマ・アルパカ:アンデス高地のラクダ科の家畜。詳しくは「おわりに」に述べる。

「笑ふ山」と表現することもできる。

笑ふ山笠の如くに平らなり
菅原師竹

春の「山笑ふ」のほかに、夏の「山したたる」、秋の「山よそおふ」、冬の「山眠る」の季語もあるが、これらは、いずれも中国の山水画家である郭熙かく きの言葉に由来する。

郭熙は、画論『臥遊録がゆうろく』の中で、季節の移ろいに応じて、山をいかに描き分けるべきか、次のように述べている。

春山淡冶たんやにして笑うが如く
夏山蒼翠そうすいにして滴るが如く
秋山明浄めいじょうにして粧うが如く
冬山惨淡さんたんとして眠るが如く

淡治:すっきりとして派手さはないが、美しいさま
蒼翠:木々や草が茂り、あおあおとしているさま
明浄:明るく、はっきりとした美しさのあるさま
惨淡:薄暗く、どこかさびしいさま。

どれも、四季の山の様子を表現する上で、これ以上ない言葉が選ばれている。

冬の惨淡から春の淡治に表情を変えた山は、眺める者の心を緊張から解放し、弛緩しかんさせる。

帰国して捨てる遺言ゆいごん山笑ふ
中村和子

箪笥たんすよりつま詫状わびじょう山笑ふ
岡淑子

笑う山を見やり、気持ちのリラックスした俳人は、何気ない日常の中に「うふふ」と微笑んでしまう瞬間を見つけ出し、それを俳句にとどめる。

蒟蒻こんにゃくのしみ損うて山笑ふ
竹丈

伐口きりくちの大円盤や山笑ふ
阿波野青畝

松かさでお手玉すれば山笑ふ
西本一都

ロボットが豆腐をつかみ山笑ふ
松崎あき子

山笑ふまだからつぽのランドセル
目黒孝子

足の裏けば笑ふ子山笑ふ
村山砂田男

山笑ふノート丸めし筒の中
凡茶

次の俳句は「子供千人」の表現が大胆。山桜が一斉に咲く直前の山を思い浮かべても、春が胎動し始めた頃の山を思い浮かべても、どちらでも合う気がする。

山笑ふ子供千人隠れゐて
平井照敏

季語随想

学生時代、バイトをして貯めたお金で、一か月ほどヨーロッパを旅したことがあります。
部屋に鍵のかからないような格安の宿を転々とする貧乏旅行です。

隣の部屋に泊まっていた同性カップルが大げんかをし、劣勢に立たされた青年が、助けを求め、私の部屋に逃げ込んできたこともありました。

その旅路で、同じような貧乏旅行の日本人学生と出会い、日本に帰ったらまず何を食べたいかを話しあったことがあります。
結果、日本に帰ってまず食べたい料理は二人ともカツ丼でした。

ところで、カツ丼の上に乗っかっているカツ(カツレツ)は、西洋のコートレットを明治以降の日本人がアレンジしたものです。そして、それを卵で綴じて丼に乗っけたカツ丼は、カツそのものより、もっと歴史の浅い料理です。

それでもカツ丼は、当時の二人の貧乏学生を魅了してやまない、日本の国民食の一つとなっていました。

カツ丼は、日本人の二つの気質が生み出した、日本の財産であると思います。すなわち、

よいものは何でも吸収する貪欲どんよく
吸収した物を土台に新たな物を創造する自由さ

という、二つの気質が生み出した、「大衆食の世界」の至宝であると言えましょう。

「俳句の季語の世界」にも、「大衆食の世界」のカツ丼に似た至宝があります。それは「山笑ふ」という季語です。

日本人は「よいものは何でも吸収する貪欲さ」で、中国の画家・郭熙かく きが遺した「春山淡冶にして笑うが如く」という名言の中から「山笑う」の語を抽出し、詩歌の世界に取り込みました。

そして、「吸収した物を土台に新たな物を創造する自由さ」で、「山笑ふ」の名句を次々と生み出し、この語の季語としての地位を確立してきました。

さて、「大衆食の世界」では、今でも貪欲に新しい物が吸収され、それを土台に新しい物が次々と創造されています。

例えばいちご大福は、流行の段階はとうに過ぎて、いまや根強いファンのいる定番の甘味になりつつあります。

これに対し、「俳句の季語の世界」はどうでしょうか?

私は、「俳句の季語の世界」では、「よいものは何でも吸収する貪欲さ」と「吸収した物を土台に新たなる物を創造する自由さ」という日本人の二つの気質が、近年、あまり生かされなくなってしまったようにも感じています。

「俳句の季語の世界」でも、生活、行事など、人事の部類に属する季語は、時代の変化に合わせ、少しずつ増えています。

しかし、天文、地理など、自然の部類に属する季語はどうでしょう?

吸収と創造によって、日本人の新たな財産と言えるような自然の季語、「山笑ふ」のような季語が生み出されることは、ほとんどなくなってしまったのではないでしょうか。

私自身、俳句に関しては守旧派に属すると思われ、伝統を破壊して俳句の季語の世界を革新しようなどという野心はありませんが…

「俳句の季語の世界」が老年期を迎えてしまわぬよう、令和の歳時記に新しい季語を迎える柔らかい心は持ち続けていきたいと考えています。

おわりに

ここまで当記事をお読みいただき、ありがとうございました。

上掲の拙句「山笑ふリャマとアルパカ競ひ」に登場するリャマとアルパカは、次の写真の動物たちです。

南米のアンデス山脈上の高地(ペルーやボリビアなど)で飼われる家畜で、放牧地の草を食べて育ちます。

かつて私は高校の地理教師をしていましたが、これらの動物はアンデスの人々の暮らしを支える極めて重要な家畜であるため、生徒たちにしっかりと教えてきました。その際、

「リャマは比較的大きくて力が強く、荷物の運搬や食肉を得るために利用されているんだよ」

「一方のアルパカはリャマより小型で、光沢のある毛を採って民族衣装のポンチョなどに加工しているんだよ」

と、教えてきました。
しかし、リャマとアルパカは極めて近い関係にあるため雑種も生まれやすく、現地の人でも両者を区別することは難しくなってきているようです。

そんなリャマとアルパカですが、彼らについては、そのふんもアンデスの重要な生活物資となってきました。

森林の発達しない高冷地のアンデスでは、リャマとアルパカの糞が、まきの代わりに炊事や暖房のための貴重な燃料とされてきました。
彼らの糞は、人間へのプレゼントですね。

さて、最後になりますが、下に並べた「春の季語・地理」「山の季語」などのタグをクリックすると、関連する季語を紹介するページが一覧で表示されます。
ぜひ、ご活用ください。

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