万緑(ばんりょく) 夏の季語・植物

万緑

万緑(ばんりょく)の時季と副題

時季三夏(初夏・仲夏・晩夏) 5月・6月・7月
副題

万緑(ばんりょく)の解説と俳句での活かし方

辺り一面が草木の深い緑に覆われた状態を万緑と言う。筆者は、森林、草原の緑に加え、夏の田畑に育つ緑も、万緑の景観を構成する重要な要素であると考える。

中国に「万緑叢中紅一点そうちゅうこういってん」という言葉がある。

「見渡す限りの緑の中に赤い石榴ざくろの花が一輪咲いている」という句意だが、今では大勢の男性の中に女性が一人居るという意味で、紅一点の部分が使われる。

北宋の詩人、王安石の「詠柘榴詩えいせきりゅうし」という漢詩の一部と言われるが、定かではない。

この万緑という言葉は、ほかにもいくつかの漢詩の中で用いられてきたが、中村草田男の次の一句などがまれたことにより、日本でも俳句の季語として定着していった。

万緑の中や吾子あこの歯むる
中村草田男

近現代の俳句を代表する名句中の名句である。

さて、「万緑叢中紅一点」の詩句は一面の緑と一点の赤とを対比しているが、俳句にも、万緑とその他の事物とを対比した作品が多くみられる。

例えば、前掲の草田男の句は、広大な空間を埋め尽くす深緑と、小さな命が生み出したけがれのない白とを対比しているが、二色のコントラストが実に鮮やかである。

秀逸な対比のみられる万緑の俳句を、もう少し見ていこう。
まずは、加藤楸邨の次の句。

せきとして万緑の中紙魚しみは食ふ
加藤楸邨

卑小ひしょうな紙魚と壮麗そうれいな万緑との対比は滑稽味こっけいみかもしだすが、紙魚に対しては「あはれ」も感じる。

楸邨の句をもう一つ。

谿たに尿いばりすはてきらきらと万緑へ
加藤楸邨

句材としての尿の選択は大胆であるが、この句が試みた万緑と尿との対比は、尿の下品で汚れたイメージを強調するような対比ではない。

万緑の、重みと深みのある美しさとは対照的な、谷へ解放される尿の、軽やかさと躍動感のある美しさが強調される。

次の句の対比は強烈だ。どきりとする。

万緑や死は一弾をもって足る
上田五千石

生と死との対比だが、中七・座五の措辞そじが、万緑の語が持つあふれるような生命感を一層強調する。

一方、次の句は、万緑の語が持つ生命感が、過疎かそ地のわびしさ、さびしさを、一層際立たせる。

万緑の隠岐おき青年も牛も減る
藤井亘

万緑2

季語随想

一杯ひっかけ、ぐっすりと寝て起きて、気分を一新するか。
さすがに今日は疲れたぜ。

みんなに気に入られなくちゃって、
みんなの期待に応えなくちゃって、

偽りの自分を演じていたな…。

そんな無理、長続きするわけないだろ、こんな俺ごときが!

明日からは、少しずつでいいから演技を減らしていこう。

少しずつでいいから、自分というものを出していこう。

薬味やくみをたっぷり効かせたつまみで一杯ひっかけ、
ぐっすりと寝て起きたら気分一新、だめな自分を堂々と見せていこうか。

万緑の端よりみし薬味かな
凡茶

おわりに

ここまで当記事をお読みいただき、ありがとうございました。

前掲の拙句「万緑の端より摘みし薬味かな」は20年前、あるいはそれ以上前に詠んだ句です。

自分でも気に入っているようで、薬味を効かせて刺身、蕎麦そば素麺そうめんなどを食べようとするときは、必ず口をいて出ます。

そして、そのたび、「そこそこ佳い句が詠めたな」と、ちょっとだけ自惚うぬれます。

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