新涼の時季と副題
時季 | 初秋 8月 |
副題 | 秋涼し 涼新た |
新涼の解説と俳句での活かし方
夏の季語「涼し」は、暑さの中で感じる夕暮れ時、水場、木陰などの貴重な涼しさである。
これに対し、秋の季語「新涼」は、暑さが弱まっていくことで感じられるようになった確かな涼しさである。
夏の「涼し」は、直前までの強い日差しや汗ばんだ体を連想させるが、前後の時間と連続する安定した涼しさである秋の「新涼」は、汗臭さの無い、さっぱりと透明感のある空気を連想させる。
新涼やさらりと乾く足の裏
日野草城
新涼や白きてのひらあしのうら
川端茅舎
新涼やたしなまねども洋酒の香
中村汀女
新涼の水の浮かべしあひるかな
安住敦
新涼や尾にも塩ふる焼肴
鈴木真砂女
新涼やからむものなき蔓の先
村山秀雄
新涼や夫婦茶碗が墓の前
大坪和子
魚飛んで新涼の海きらめかす
長岡冨士子
新涼のボーイソプラノ運ぶ風
森景ともね
もの置かぬ机上もつとも涼新た
井沢正江
さて、夏の涼しさの中では、多くの人が動かずにじっと休んでいたくなるものだが、心地よい秋の涼しさの中では、仕事、芸術、スポーツに精を出し、旅行や余暇を満喫したくなる。
つまり、夏の「涼し」が「憩いたくなる涼しさ」ならば、秋の「新涼」は「動き出したくなる涼しさ」と言える。
新涼の画を見る女画の女
福田蓼汀
新涼や旅に愛せし小鉛筆
能村登四郎
新涼の母国に時計合せけり
有馬朗人
新涼や子の机借りものを書く
伊藤政美
新涼や誕生石の耳かざり
勝見玲子
なお、江戸時代の俳句には「新涼」の語を用いたものは多くなく、「秋涼し」が頻繁に用いられた。
秋涼し手毎にむけや瓜茄子
芭蕉
文台の扇ひらけば秋涼し
呂丸
秋涼し早稲の匂ひの右ひだり
乙由

自句自解
次の句は20歳代半ばに詠んだものだが、句会でそこそこの評価を得た。
パレットに恐竜の色涼新た
凡茶
当時は、恐竜が実際にはどんな色をしていたのかが、まだ全くわかっていない時代だった。
想像するしかない恐竜の色を想像し、キャンバスに色を加えていくことの楽しさ、つまり、無から何かを創造していく時に感じる胸の高鳴りのようなものを表現したかったのだが、「涼新た」という季語の選択がうまくいったように思う。
新涼・涼新たは、俳句の印象を特定の色に染め上げてしまうことのない透明な季語であるが、爽快感・刷新感を作品に与えてくれる。
希望、挑戦、始動などを俳句の隠し味にしようとすると、得てしてカッカと熱い作品が出来上がってしまうものだが、新涼・涼新たを季語として用いると、さらっとくどくない仕上がりになる。
拙句もそのように仕上がったと、自己満足している。
ところで、近年は科学者らにより、一部の恐竜の色が解明されはじめたと聞く。
謎だったことが謎でなくなってくると、想像を楽しむ機会が減っていくようで、なんだか寂しい気持ちになる。
しかし、人類は、何か一つの謎を解き明かすと、また新たに謎を見つけては、その解明に向かって突き進むようになる。
恐竜は、今後、どのような謎を我々にプレゼントしてくれるのだろう?
おわりに
ここまで当記事をお読みいただき、ありがとうございました。
上にも述べた通り、夏の「涼し」が「憩いたくなる涼しさ」ならば、秋の「新涼」は「動き出したくなる涼しさ」と言えます。
私はなかなか重い腰の上がらない人間ですが、せっかくここで新涼をテーマに記事を書いたのですから、とにかく「動き出さなくちゃ」って思います。
もう少し時間があれば、もう少し才能があれば、もう少し若さがあれば、もう少しお金があれば…と、様々な理由をつけて取り組んでこなかったことに、決して無理はしないけれど、少しずつ挑んでいこうと思います。
新涼や車窓にいつか登る山
凡茶
さて、最後になりますが、下に並べた「初秋の季語」「気温・体感の季語」などのタグをクリックすると、関連する季語を紹介するページが一覧で表示されます。
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