うふふ
作句の参考にするために、あるいは、ウェブ記事に載せる例句を探すために、インターネット上を彷徨いながら方々の俳句サイトを訪ね回っていると、思いがけず傑作と出くわすことがある。例えば次の句。
みなで取る保母のお尻の草虱
西山温子
保母:保育士の古い呼称。かつて保育の仕事に就く者は圧倒的に女性が多かったため。
読んだ瞬間、この句に恋をしてしまった。
思わず「うふふ」がこぼれてしまった。
草虱は、次に掲げた写真の植物で、藪虱ともいう。俳句では秋の季語。
この草の生えているところを歩くと、鉤型の毛の生えた実が衣類にいっぱいくっつき、一度くっつくとなかなか取れない。

草虱だらけになったお尻を、恥ずかしそうに園児たちの方に向ける保母さん。
保母さんのピンチを救おうと、銘々に小さな手をお尻に伸ばす園児たち。
保母さんの悲劇に最初に気づいたのは、園児の一人か、それとも一緒に遠足の引率に出た別の保母さんか。
この句に描かれた光景を思い浮かべると、優しく、温かく、そして楽しい気持ちになってくる。
そんな微笑ましい、「うふふ」とならずにはいられない俳句を、この記事では満喫していただきたいと思う。
幼児を詠んだ、うふふの俳句
「うふふ」となる気持ちをこらえきれなくなる俳句は、やはり幼児、もしくは幼児に関わるものを詠んだ句に多い。いくつか見てみよう。
園児らの絵の春山は汽車登る
後藤比奈夫
まゝごとの飯もおさいも土筆かな
星野立子
おさい:おかずのこと。
つかまへて子供を洗ふ夏木立
長谷川櫂
双つ子の赤と緑のかき氷
秋山幸穂
前二句は春の俳句、後二句は夏の俳句だが、どれも季語が活きていて、ゆるぎない。
例えば、比奈夫の句の春山を、夏山、秋山、冬山と取り換えることは絶対にできない。
おじいちゃん、おばあちゃんがお孫さんの愛くるしさだけを描写した「孫俳句」は、句会や結社誌等に出しても高評価を得られないことが大半だが、季語が活きている作品ならば、幼児を詠んだ句であっても、上掲のような「うふふ」となる傑作を生みだすことができる。
さて、次の二作品は、必ずしも幼児や幼児に関わるものを詠んだ俳句とは限らないが、私は、幼児の存在を感じ取って「うふふ」となってしまう。まずは読んでみてほしい。
もう泣かぬ顔セーターを抜け出せり
奈良文夫
暖かし猫につきたる子の刈毛
田川飛旅子
一句目に登場する「セーターを抜け出した顔」は傷心の大人の女性の顔かもしれないし、初老の男性の顔かもしれない。二句目の舞台となった家に暮らす「毛を刈ってもらった子」は、部活で汗を流して帰ってきた野球青年かもしれない。
だから、これらの句から「セーターを抜け出した幼児のべそかき顔」や「まだ恥ずかしがらずに親に毛を刈らせる幼児」を連想する私は、大いなる思い違いをしている可能性があるが、幼児をイメージすると、「うふふ」が止まらなくなる。

次の「うふふ」は小林一茶の句。
名月をとつてくれろと泣く子哉
一茶
俳諧俳文集『おらが春』所収の名句だが、この句を発表する前に、一茶は『七番日記』の中に次の句を遺している。
あの月をとつてくれろと泣く子哉
一茶
後者を推敲した結果生まれたのが前者ということなのだろうが、私は推敲前の「あの月を」の句の方が、いつもより近く、そして、大きく見える月を欲しがる子供の無邪気さがよく出ていて、より「うふふ」の気分が強まる。
これらの句、微笑ましい作品だが、四人の子供を幼くして亡くしている一茶の境涯を知ってから鑑賞すると、少し切なくなる。

ここで、拙句を二つほど紹介させていただきたい。
たんぽぽや父へ飛び込むちび力士
凡茶
兄追へりおんぶばつたを握りしめ
凡茶
いずれも幼児を詠んだ句で、そこそこ自信作ではあるのだが、いくらかでも「うふふ」な気持ちになっていただけたただろうか。
幼児を詠んでいないけれど、うふふの俳句
もちろん、読者を「うふふ」な心地に導いてくれる俳句は、幼児を詠んだものだけではない。
五作品だけではあるが、思いつくままにそんな作品を書き連ねてみた。
木曽のなあ木曽の炭馬並び糞る
金子兜太
木曽:長野県南西部から岐阜県南東部にかけての山間地
雪だるま星のおしゃべりぺちやくちやと
松本たかし
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの
池田澄子
露けしや妻が着てゐる母のもの
細川加賀
たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ
坪内稔典
冒頭の兜太の句についてのみ触れるが、詠まれている景は、木曽で飼われる炭を運ぶ馬が、並べたように馬糞を落としたというものである。
お世辞にも美しい景を描写したとは言えないが、木曽地方の民謡『木曽節』の歌いだしの「木曽のなあ」を上五に用いたことで、おかしみがあり、親しみやすい俳句に仕上がっている。落ちている馬糞さえも、愛おしい存在に感じてしまう。
この句もそうだし、他の四句もそうだが、こういう読者を「うふふ」とさせる俳句は、優しさ、温かさに加え、「遊び心」も持っていないと生み出せないのではないだろうか。
うふふふふ
ここまでは、鑑賞する者に「うふふ」となる喜びを味わわせてくれる俳句を紹介してきたが、ここでは、「うふふふふ」の語が作品中に用いられた「うふふ」を味わわせてくれる俳句を紹介したいと思う。前出の「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」と同じ作者の代表作である。
三月の甘納豆のうふふふふ
坪内稔典
三月になると必ずこの句を思い出し、そして甘納豆を一袋買ってしまう。
実はこの句の作者には、一月から十二月までの全ての月の甘納豆の俳句があり、それぞれ面白い句なのだが、やはり三月のクオリティが傑出している。一月、二月のものだけ、ここに示しておきたいと思う。
一月の甘納豆はやせてます
坪内稔典
二月には甘納豆と坂下る
坪内稔典
やはり三月の一句が佳い。
おわりに
ここまで当記事をお読みいただき、ありがとうございました。
筆者がまだ若く、句会に通い始めたばかりの頃、自分の投句に対して、先輩方から盛大な「うふふ」をいただくことがしばしばありました。
いや、中には「ガハハ」の笑い声も混じっていたかもしれません。
例えば、次のような投句に対してです。
菓子買つて賽銭つくる薄紅葉
凡茶
とんぼ入りてとんぼ出て来ず天守閣
凡茶
当時はなぜ皆さんが「うふふ」と笑うのか、自分では理由がわかりませんでした。
でも、今これらの句を読み返すと、孫ほどの年齢の私が詠んだこれらの句に対し、句会の先輩方が多くの「うふふ」を与えてくれた理由が、しみじみわかります。


